スマートフォンは読み物に向いているかもしれない

同じコンテンツを、PCサイト、スマートフォンサイト、携帯サイトに展開する際、表示領域が異なるため、レイアウトやナビゲーションを工夫するのは当たり前ですが、スマートフォンは画面サイズ以外に、操作性が考慮のポイントになりそうです。

指で直感的に、表示領域の拡大/縮小ができるので、広告やナビゲーションなど、コンテンツを読むのに余分な要素をカットできます。商用ブログやポータルサイト系の読み物は、広告が表示されたり、そわそわする要素が多くて記事に集中出来ないことがあります。延々とループされるテレビCMのような広告だと、ブラウザサイズを調整したり、テキストエディタに記事をコピー&ペーストして読むこともありました。
またスクロールが簡単なので、ページ送りが自分の感覚とマッチしていると思います。PCではマウスのホイールが実装されたときは大変便利になったと感じましたが、MacBook のスライドパットを使い始めて、サイトを閲覧する際にはマウスより使いやすいことが実感できました。

さらに、スマートフォンでは画面上を指でスライドさせる操作が、本を読んでいる感覚に近くて、メールや記事を読むには親和性がよいのではと感じています。
携帯(ガラケー)サイトも表示領域の制限で、テキストのみの記事が多いのですが、スクロールさせる操作感や不自然な半角文字に慣れることができず(ケータイ小説はどうしても読む気にはなれませんでしたが慣れかもしれません)、いまだに外出時の非常手段程度にしか利用していません。
少し前までスマートフォンは移動中にチェックするデバイスとして利用していましたが、最近では自宅のリビングでメールをチェックしたり、ブラウザで調べ物も行うようになりました。
スマートフォンの出現で、Flashなどリッチコンテンツのあり方も見直しされていますし、これからもインターフェイスも進化していくはずなので、制作に関わる人間として、情報を伝えるベストプラクティスを模索しつづけることが大切と思います。

歴史小説について

歴史小説を読み始めたのは、中学生頃だったと思う。

小学生から家族で一人だけ時代劇を見ていたし、大河ドラマ「独眼竜正宗」をみて衝撃が覚え、以降、戦国時代から抜けられてない気がする。

戦国時代の本は読み続けているのだが、自分が好む読み方は、ある特定人物に興味を持つと、いろんな作家が書いている本を探して読む。その中で印象に残った武将の本を探して読む、という感じだ。

どの立場を軸に組み立てているかで、同じ人物がまったく違う印象に書かれるし、同じエピソードでも違う視点で捉えていることが多い。書かれた時代でも異なる傾向があるのは、研究の成果のようだ。歴史は解釈により変わる。

代表的な例は、石田光成だと思う。小学生の時に歴史で学んだ石田三成は、どちらかというと悪者キャラだった。最近の小説では評価しているモノが多いと思う。有名人で一番イメージが捉えづらいのは徳川家康だと思う。律儀だったり腹黒かったり、温厚だったり威圧的だったり、我慢強かったり強引だったり、さまざまな描かれ方をする。

これは、政権をとった人物に都合の良いようにエピソードをあつらえるからであろう。中国は権力者がアンチ勢力の書物を捨ててしまう、というのはよく聞くが、日本も似たような状況だと思う。

一般的に知られている人物は、本来どんなヒトだったんだろう?と自分なりに想像するのが好きだ。仮説を組み立てるには情報は多角的で多い方がやりがいがある。

歴史の情報は、小説から得ることがほとんどであるが、歴史の本は大きく2分される。ひとつは登場人物に人格を与えて、物語として展開していく手法。もう一つは、年表のように事実を淡々と紹介する手法だ。

戦後の小説は、後者が多かったのではと思う。その人物の行為を読んでいくことで、自分なりに人物像を作られていく。余計な演出がなく、ある日、○○をしました、次に△△をしました、「×××」と言いました、など、どんどん物語は進行していく。エピソードが多少スキップしても気にしない。

人格を与えるパターンは、作者が、事象の中から人実像を想像し、演出を加えたモノである。猪突猛進キャラだったり、賢そうだったり、人間味を出しているので、読んでいて感情移入がしやすい。最近の歴史小説はこちらの傾向が多いと思う。

自分としては、どちらもアリだ。特定の登場人物について選択が出来るほど、本が出てないことが多いので、題名で選んで読んでいくうちに、小説の立ち位置を分類する。よいパターンとしては、キャラものを読んで好きになり、エピソードをつなげて自分なりの世界観を組み立てることだと思う。